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原産地関係エッセイ・論文・講演資料

連載 第二十八話−法制局審査、原産地、国際機関等(その2)−

お陰様で、連載も2年目に入れるようです。今回も書き残したエピソードです。

【国際機関の独善・偏見的寸評とエピソード】

この項は、筆者の独善と偏見によるGSPのような「一方的な」見解ですので、投書はご遠慮方お願いいたします。UNCTADへの出向が決まった1982年、A.ビアスの著した「悪魔の辞典」(The Devil's Dictionary by Ambrose Bierce)を買い求めましたが、この本のように辛辣には書くことはしませんのでご安心ください。

UNCTAD : 途上国経済等の理論的拠り所を標榜している国際機関だけあって、世に出るペーパーの基調は例えていうと「世の中が悪いのは先進国が悪いから」というトーンに彩られていました。実際は一部に少々違った人たちがいまして、これら賢い人たちはまともな論文を書いて、OECD、GATT、世銀などへの転職を画策していました。UNCTADはいわばそのための踏み台(stepping stone)に使われていました。この結果、時間の経過とともに有能な人がいなくなってくるのは自明の理であったため、筆者でも伍していけたのではないかと思っています。冗長な文書が特徴で、このため、内部からも苦情が出て、ページ数の制限が課せられたことがありました。意外に思われるかもしれませんが、UNCTAD事務局内で真面目に途上国のために仕事をしていたのは、主に先進国出身の職員でした。

OECD : パリに分散してあった先進国クラブの国際機関(筆者はUNCTAD特恵特別委員会に出席するため、OECDで開催されたGSP供与国による事前打ち合わせ会合に一回だけ参加しましたが、会場はあの凱旋門から歩いていける距離にありました。)。先進国グループ(Group-B)に理論的サポートを行う国際機関でもあったわけです。このため、当時はUNCTADとは敵対関係にありました。作成文書はUNCTADのように練れていない冗長なものではなく、独特のもったいぶった言い回しや、上から目線の言いぶりに特徴がありました(UNCTAD職員のバイアスのかかった目で読むと評価はこのようになります。)。
筆者の上司はボストン出身の米国人で、計量経済学博士、NY市立大学准教授からUNCTADに就職しました。ボストンに一緒に立ち寄った際、御母堂は彼の国連への就職に関する新聞記事の切り抜きを筆者に見せてくれました。この上司は酒・ジョーク大好き人間でしたが、ある時、真面目に次のエピソードを語ってくれました。南米のとある都市における途上国経済の現状に関する会議で、上司も講師として出席していたのですが、(上司が言うにはアロガントな)OECDのスピーカーが、「I am pleased to be here today to educate you…」と切り出したらしく、誇り高い南米の参加者数名がwalk out(退場)したというのです。学生でもないので教育されに来たわけではない、ということだったのでしょう。国連では、内容はともかくもっと洗練された言い方で、同じようなニュアンスなのですが、「I wish to share my experience with everyone here today…」と言っていました。筆者もOECDのスピーカーに退場者こそ出ませんでしたが、似たような経験があります。OECD事務局内部は先進国出身者だらけで問題はないのでしょうが、外での会合でいつも思っていることが思わず出てしまったのかもしれません。これはもうトラウマになっているとしか言いようがありませんが、後日、ADBにおいてセミナーの講師を選定する段階で、どうしてもOECDからの専門家でないともたない場合以外は出来るだけ避けていました(ADBにおけるエピソードで取り上げる予定ですが、ADBは他の国際機関と技術協力を始めとして多くのMOU(Memorandum of Understanding、了解覚書)を締結しており、その中にOECDとのMOUがありました。OECDとのMOUの中に筆者が担当する分野があり、これは仕方のないことでした。)。

GATT・WTO : 卓越した実務家の集団であって、事務処理能力は半端ではありません。会合では議長役を務め、きっちり議事進行を終え、会合が終わったその日のうちにA-4、2枚半以内の議事録サマリー・ドラフト(これ以上長いと幹部は読みません。)を完成しています。国際機関で人使いの荒い上司に揉まれないとこのようにはなれないでしょう。当時の通産省のある方が述懐していましたが、ウルグアイラウンド妥結時、通産省には二つの悲願があって、一つは定期的に閣僚会議を開催すること(GATT時代は必要がある場合開催されてはいましたが、定期的ではありませんでした。WTO体制下では2年に一回は閣僚会議を開催することとされましたのでこれは実現しました。)で、もう一つは、事務局職員数をせめて四ケタ台にのせることであったそうです(GATT時代は半分の約500名であったと記憶しています。現在、職員数は約650名と言ったところでしょうか。なお、ADBは四ケタの職員数です。)。
ウルグアイラウンド交渉中であっても合意が成立したものは実施していくという「Early Harvest」の一つとして「TPRM」(Trade Policy Review Mechanism: 貿易政策検討制度)があり、日米EUを含む四大加盟国については2年に一回の頻度でTPRMを行うこととされています。当初、日本のTPRM担当職員は慶應義塾大学出身の某博士でしたが、OECDへの転職が決まり、空席が生じました。噂ではかなりの数のUNCTAD邦人職員がこのポストに応募したようなのですが、全員見事に落ちました。採用されたのは米国人で、何と日経新聞を読める人だったそうです(余談ですが、1980年代初頭「Japan as No.1」ともてはやされた頃、多くの日本製品が欧米でアンチ・ダンピングを打たれていました。この時期、日本の有力企業は、ダンピング訴訟に強い欧米の有力な弁護士を盛んに雇用していました。その中に、オランダ人で日本の大学で学び、日経新聞が読めるほどの人がいました。ソニー会長の故盛田昭夫氏とも会われたそうで、この数年の間に財を成し、40代半ばで引退しています。そのような悠々自適な人生もあるのですね。)。

IMF・世銀 : 組織上は、国連の専門機関としての位置付けです。しかし、彼らは、業務の重要性や実績からみて、意識の上では国連よりも上だと思っているに相違ありません。ここは多くを語ることはしないようにして、昔話一つ二つで勘弁してもらいましょう。これは大蔵省のさる方から伺った話なので、信憑性はあると思います。ある時、海外出張でビジネスクラスに乗り込んだら、IMFに出向している後輩が何とファーストクラスに乗っていたというのです。現在はこのようなことはありませんが、一時期はIMFの待遇が抜群であった、というエピソードです。 IMFの権威の源泉はその加盟国が経済や通貨危機を迎えた時、融資を行う交換条件として財政再建や税制改革などの「conditionality」を課する点にあります。1997年のアジア通貨危機の際、インドネシアに求めたconditionalityは過酷すぎたと主張する学者がいました。他方これはIMFの権威の見本にもなりうると思っているのですが、日本は戦後一貫して韓国が導入してきた自動車の規制などの対日輸入差別の撤廃を要求してきましたが、はかばかしい進展はありませんでした。ところがこの通貨危機の際、一夜にしてすべて撤廃されました(IMFとの合意の一項目に「通商障壁の自由化」がありました。)。皮肉なことに、最近は通貨危機が起きていないためIMFの伝家の宝刀を抜く機会がなく(本来は喜ばしいことだと思います。)「活躍」していないので、IMFの地盤沈下を危惧する学者もいるようです。
筆者が在籍中は国連に8時間ルールというものがあり、公用出張で8時間を超えるフライト(直行便がない時は、乗り継ぎに要する時間を加算したトータルの時間でした。)の場合、ビジネスクラスに乗ることができました。一度、米国への出張があり、NYとワシントンの両方に行く必要がありました。先に、NYにしますと8時間以下となってしまいますので、上司に従い先にワシントン(NYからの乗り継ぎとした関係で、乗り継ぎに要する時間を含め8時間を超えました。)で業務を行いました。

ADB : 専門職員数1,100名超、補助職員数2,000名超のフィリピン最大、いや、東南アジア最大の国際機関と言えます。感覚的には、欧米系、東アジア系、インド・パキスタン系、各々三分の一で構成されているようです。日本人職員数も約150名と、歴代の日本人総裁と共に奮闘されています。国連が出先にUNDP事務所を構えているように、ADBも多くの加盟国に事務所を置いています。ADBには12年間在職しましたので、後日、詳しく触れたいと思います。一点だけ、国連、WTOやOECDと異なる点があります。ADBは開発融資を行う銀行ですので、途上加盟国政府へのローン貸し付けから利息・手数料を徴収しています。これを原資として全職員への給与が支払われます。このため、ADB加盟国政府には、例えばOECDのように、毎年の事業費を賄うための分担金(人件費を含む。)を支払う必要はありません。ADBには、例えば欧米など、多くの域外国が加盟しています。現在、AIIBの加盟国数がADBを上回ったという報道がされていますが、筆者の視点は少し違うところにあります。ADBの場合、域外からの加盟国はすべてADB融資の借り入れ国では決してなく、貸付資金の提供国です。このADBのポリシー、技あり一本と思いませんか。域外から加盟する直接的なメリットは筆者が見るところ二つあって、一つは、ADB職員になれること(非加盟国国籍の人は職員にはなれません。また、コンサルタントになる場合も、非加盟国国籍の人には厳しい制限があります。)、もう一つは、加盟国国籍企業のみがADBが行う調達やプロジェクトの受注に参加できることです。

【英語について】

このタイトルでは沢山の切り口があって、書こうと思えば連載数回分にもなりかねませんので、自分なりに対象を絞って書きたいと思います。筆者は北海道の片田舎で育ちましたが、高校を卒業するまで、外国人(ジープに乗った米国人)を見たのは一度きりです。子供の時分、夜中に短波放送のチャンネルを合わせる際、日本語ではない放送があって(多分朝鮮語と思われます。)日本語ではない言葉もあるのだ、と漠然と認識していただけでした。田舎に育ちますと新しいものに興味が湧く様になり、英語もその対象の一つで決して得意ではありませんが、好きになりました。英検は二級止まりですが、半世紀近い前は準一級というカテゴリーがなく、二級と一級の差がかけ離れすぎていました。横浜税関入関当時は当局が英語の研修に力を入れておりまして、選抜試験でいい成績であれば「日米会話学院」で6ヵ月、このレベルに達しない職員はお茶の水にある「アテネ・フランセ」で4ヵ月、これでも無理なら横浜の「YMCA」で3ヵ月の会話コースに行くことができた時代でした。筆者は4ヵ月コースでした。

日本の英語教育では文法を重視しがちです。筆者の初歩的なミスを話します。習いたて当初は、先ず、相手の英語を日本語に転換しその内容を理解し、次に、返答を日本語で考えこれを英語に直し、更に文法をチェックして、返そうとすると、話題が次に移り、結局何も話せないままに終わることがままありました。UNCTADで部下であったイタリア人を見ていますと、ブロークンでも先ず話す、何回か繰り返して話すと、結構様になってくる、というプロセスでした。筆者の子供がフランス語を話すプロセスも、イタリア人の場合と一緒でした。このあたりに会話の上達への何かヒントがありそうです。

会話が上達する一番いい方法は何かと聞かれましたら、筆者の経験から、「1年の会話コースに通うなら、周りに日本人のいない土地に行って3ヵ月生活することです。」と答えるでしょう。筆者は、UNCTAD時代にセミナー行脚をしていて、一回の出張で最低2週間、家族から離れ日本人が周りにいない、専ら英語での仕事になりました。終わって帰ったら上達していると実感できることがしばしばありました。尤も、ジュネーブに戻ると、家では日本語ですので元の木阿弥になりますが。筆者がラッキーだったことは上司が米国人でネイティブであったことです。このため、上司と一緒の出張には英和辞典を持参したことはありません。辞書を引くより、上司に聞いた方が早いし、先方はさぞや迷惑だったことでしょうが、この意味で上司は筆者にとって生きた英・英辞典でした。妙な感覚なのですが、英語に慣れてきて耳に英語モードのスイッチが入っていますと、急に日本語で話しかけられても、言っている日本語の意味が取れないことが起きます。誌面が尽きてしまったので、国連における英語のエピソードは次回に詳しく書いてみたいと思います。

2017年10月27日 掲載
文中、意見に及ぶところは筆者の個人的な意見であり、JASTPRO又は関係諸機関の見解ではないことを予めお断りしておきます。

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