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連載 第三十話−UNCTAD・GSPセミナーこぼれ話(その1)−

この連載を辛抱強く読んで頂いている某友人から言われるのは、表題と中身が時々一致していないとの尤もな御指摘です。気を付けてはいるのですが、書いている途中から連想ゲームのように別のエピソードが現れて、収拾がつかなくなります。このような場合であっても、無理のないように帳尻を合わせる努力はしています。さて、今回からGSPセミナーにまつわるエピソードに入りますが、筆者がUNCTADに赴任したのは今から丁度35年も前の1982年のことで、勝手ながらこの辺りの経緯から紐解かないと、突然セミナーの話をしても前後の状況がわからないため、興味も半減してしまうでしょう。ということで、時間の経過を35年前に巻き戻して開始したいと思います。

【ジュネーブでのブリーフィングを受ける】

1982年5月某日夜、筆者は生まれて初めて、箱崎にある東京シティ・エアターミナル(T-CAT)で身に余る壮行会に見送られ、JAL便でチューリッヒ経由ジュネーブ行きに乗り、UNCTADにおける一週間のブリーフィングに向かいました。当時は、ソ連が他国籍航空機の自国領空の飛行を認めていなかったため、北回りの欧州便は一旦アンカレジに立ち寄り、給油の後、飛び立ちました。ご存知の方も多いと思いますが、アンカレジ空港には2mを超す背丈の白熊君の剥製が飾ってありました。これから先何が待ち構えているのだろうと考えると、いやがおうにも気分が高ぶって眠れず、北極海上空から果てしなく広がる白氷の世界を眺めていました。大変恐縮しましたが、ジュネーブ空港では関税局から代表部に出向されていたT書記官(某税関長で退官)の出迎えを受け、滞在中大変お世話になりました。

国際商品協定交渉に何度もジュネーブに出張されていた元上司のY氏の定宿を紹介されており、そこに泊まりました。駅から程近いところにあり(町の中央にあるコルナバン駅。駅はフランス語ではgareと書き、冗談のようですがギャーと発音します。)、周りにはお土産屋さんが多く、また、10分も歩くとレマン湖のほとりに着きます。当地のランドマークとして有名な大噴水(ジェッドー: Jet d'Eau)が140m以上も吹き上げています。このときは3年後にUNCTAD本部勤務となることなど考えもよらなかったので、ジュネーブ訪問も最初で最後と思い、スイス定番のお土産はひとそろえ買いました。なお、国連欧州本部の建物にはSaffiとか呼ばれる売店があって、町中より幾分安く買うことができました。当時、国連担当係員が欧州本部ツアー客を案内しており、国連アイテム(国連のロゴの入ったペン、マグカップ、カレンダーなど)もそろっているSaffiにもツアー客は立ち寄っているはずです。

閑話休題。宿から欧州本部敷地内にあるUNCTADビルまでは、路面電車(tram: トラム)でも徒歩でもいける距離でした。5月の早春の気候が清々しく、湿気がないため、汗をかくこともありません。ブリーフィングの内容は、主に採用手続き関連であって、色々な書類を渡されました。その中には、国連のパスポート(レセパセ)の申請書や、また、いかなる国からも指示を受けず国連職員として中立の立場で働くことを確約する「宣誓書」(Oath)があり、これに署名させられました。最初の上司は、元ジュネーブ大使であったチリ人でした。南米出身で、外交官でしたので、国連公用語であるスペイン語、フランス語及び英語を話しました。この中では、英語が一番不得手のようでした。突然ですが、筆者にはなんら関係はありませんでしたが、国連職員へのインセンティブとして、公用語六か国語のうち三か国語以上話せる職員には、別途、特別手当てが支給されていました。上司からは、近々、南米でのGSPセミナーに行ってもらうので、日本のGSPスキームとROOのレジュメを作成しておくようにとの指示以外、業務上これといったガイダンスはありませんでした。彼の秘書からは、「ジュネーブは初めてでしょう。書類手続きが終わったら毎日来る必要はないので、町中を見学したら。」
と言われました。こんな経験は生まれて初めてで、必要以上にテンションが上がっていましたから、この言葉に随分と気が楽になったものでした。

これはずいぶん後で知ったのですが、最初の上司のチリ人は、アジェンデ政権時代に政治任用(political appointee)で大使までなられた方で、1990年まで続いたピノチェト軍治独裁政権下では身に危険が及ぶため本国には帰れず、結局、国連職員として採用されたとのことでした。初対面であったので先方も威厳を取り繕っていたに相違なかったのでしょうが、以後、南米での出張期間中や本部勤務の際に次の上司となった米国人から伺った話では、実際は極めてお茶目でかつ頼りになる方とのことでした。チリの軍事政権も終わり、氏は国連を去り、最後にはスウェーデン大使となりました。特恵特別委員会には、なぜか毎年チリ政府の代表として参加され、筆者が課長代行の時は会議中に随分と助けて頂きました。かてて加えて、筆者にとって一番助かったことは、外交官、それもトップの元大使としての氏から、その振る舞い、プロトコール、応答の仕方(diplomatic expression)(因みに、前出の「悪魔の辞典」によれば、外交とは、「祖国のために偽りを言う愛国的な行為」とされています。)を直接教わり、かつ、近くにいて盗み見できたことでした。この経験は、その後のAPEC税関グループの国際会議やADBにおける業務において大いに役立ちました。

話はそれますが、「9.11」といいますとアメリカの同時多発テロ事件を指すことが一般的でしょうが、ラ米では1973年のチリのクーデタを意味することが多いと言われています。似たようなケースは、イランのシャー(パーレビ国王)の時代に国連に採用された職員にもあてはまり、UNCTADにも二桁近い職員がいたように記憶していますが、本国には当分帰れないため、彼らの仲間意識はとても強く、このため余計なことは言えない雰囲気でした。国連では加盟国の政治的な影響をまともに受ける実例を身近で感じたエピソードです。

【マニラ事務所: UNCTADアジア・太平洋地域GSPプロジェクト】

このプロジェクトの初代というか前身はスリランカのコロンボにあり、GSP・ROOを主に担当しており、英国税関を退職した人の一人オフィスでした。赴任時のOECDのGSP統計(1980年)によれば、直近の世界のGSPトップ10にアジア地域から7の受益国が上位を占め、アジア国連加盟国の後押しもあって、アジア・太平洋地域プロジェクトが誕生しました。詳しくは教えてもらえませんでしたが、ジュネーブ本部との路線の違いから、立ち上げから2年も経たずにこの人が去ることになり、新規まき直しとなったそうです。当時、本部には定年を控えたフィリピン人職員がおり、この人が優秀な後任を同国から選抜するという方針が決まったそうです。このため、筆者の赴任前には情報が錯綜しており、勤務地もコロンボだ、バンコクのESCAPだ、クアラルンプールだと言われ、しまいには何処でもいいから早く決めて頂きたいと思っていました。結局、正式な結論が出ず、暫定的に6ヵ月間マニラということになりましたが、これではマニラのUNDP事務所もすんなりこのプロジェクトにオフィスを提供するというわけにもいかないので、最初のオフィスはフィリピンの中央銀行となりました。暫定ということで、1年の契約で家を借りるわけにもいかず、家族も呼べず、当時、JAL系の2軒のホテルのうち、中央銀行にさほど遠くないホテルに住むことにしました。それまで日本で運転していた車は倉庫で待機(英国の影響のある国であれば右ハンドルで問題なしと想定し、持って行く覚悟でした。)と相成ったわけです。

ともあれ、パリ経由でマニラに到着し、空港で上司のフィリピン人女性の出迎えを受けました。ホテルに行くまでの道中でオフィスの場所の情報など、差し当たりすぐに必要となる情報のみブリーフして頂きました。実は赴任前、東京で「君の上司はフィリピン人女性で、48歳だそうだよ。ついてるね。」と言われていましたが、大きな勘違いで、実際はフィリピン税関を既に定年退職され、フィリピン輸出公社で働いていた人でした。自家用車を持ち、御主人も弁護士と、中流以上の生活をされている方でした。フィリピンは人脈社会でもあり、中央銀行にオフィスが決まった顛末は、ジュネーブ本部のフィリピン人職員と中央銀行局長クラスの人とが比国某有名大学の同窓生だったそうで、これで話がトントン拍子に決まったそうです。

つい最近まで流通していた100ペソ札(2017年12月27日まで旧札の有効期間の再延長が認められました。)の裏側には中央銀行の建物が印刷されており、3棟のうち一番高いビルの9階にオフィスがありましたので、ここで働いていたんだよと自慢したものでした。30過ぎの若造が初めての外国の勤務地で右も左もわからないところで働くことになって、見るもの聞くものすべて新鮮でした。ともあれ、翌日、中央銀行に出勤し、9階に上がりましたら、遠くの一番奥の間仕切りされたオフィスが目に入りました。ところが行く途中、フロアー全体がオープンスペースで、中央銀行職員が一斉に筆者に注目したため(それも8割以上が女性職員)下を向いて歩くという、今となっては自分ながら信じ難い行動をとっていました。オフィスは、上司(Regional Advisor)、夜間大学に通っていた秘書(19歳)と筆者(Associate Expert)の3人でした。

突然ですが、東京の中心地、日比谷公園にはフィリピンの名士お二方の銅像があります。一つは帝国ホテル側にフィリピン独立の英雄「ホセ・リサール」のもので、一時期日本に亡命しておりました。一方、マニラにはリサール公園というのがあり、衛兵に守られてホセ・リサール像が建てられており、両陛下も御訪問の折、ここで献花をされました。この公園の陸側の端に筆者の宿泊したホテルがありました(相当前に取り壊されて、今は跡形もありません。)。もう一つは、最近、日比谷公会堂に近いところに建てられたもので、「エルピディオ・キリノ大統領」像です。氏は、戦時中に奥様、お嬢様など御家族・親族を日本軍によって亡くされましたが、戦後の1953年、死刑囚を含む日本人戦犯105人の恩赦に踏み切った人でありました。氏の苦渋の決断は、将来の比日関係を見すえ、対日憎悪の連鎖を断つことの大切さをフィリピン国民に示し、日本国民にはフィリピン人の痛みへの理解を促したいためであったと言われています。日本に一時帰国するたびに日比谷公園には行くように心がけています。

リサール公園のはす向かいの海側には米国大使館があり(裏側がマニラ湾ですので、危急の際には船で脱出できるフィリピン唯一の大使館と言われています。)、その前の通りは何と「United Nations Avenue」(国連通り)と呼ばれていますが、この通りの歩道には当時、一か所だけでしたが日本軍が使用した小銃とヘルメットが置かれており、宿に近かったため何度も目にしました。現在ほど、戦争の傷が癒えていない時期でもありました。筆者が経験した二・三の実例に触れます。当時のアラヤ博物館に展示されていた日本占領時代の展示には、醜悪な姿の日本兵が飾られていました。当時は怖いもの知らずのせいか、好奇心に任せ、色々な人に会いましたが、中には占領中に習わされたと言って、自分の名前をカタカナで書いて筆者に見せた人や、筆者の前で「咲いた、咲いた、桜が咲いた。」と、多分戦前に使用された教科書からの引用なのでしょうが、これを反芻する人もいました。また、普段は微笑しているのですが、何回か会って打ち解けてきますと、お婆さんが日本軍に銃剣で刺されて亡くなったとか聞かされ、戦後生まれの筆者としてはどう対応していいのか困ったことがありました。

2017年11月30日 掲載
文中、意見に及ぶところは筆者の個人的な意見であり、JASTPRO又は関係諸機関の見解ではないことを予めお断りしておきます。

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