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連載 第三十一話−UNCTAD・GSPセミナーこぼれ話(その2)−

【当時のマニラと生活基盤確保】

後日、ADB勤務時代のエピソードを紹介したいと考えていますが、そうしますとマニラの日常について必ず触れざるを得ません。比較のためにも35年も前の1982年当時の状況について簡単に触れてみたいと思います。当時はマルコス政権の時代で人口は約5,500万人でした(現在は1億人を突破しており、直きに日本を追い越すと言われています。)。翌83年8月にアキノ元上院議員がマニラ国際空港で暗殺されるまでは、1ドルが8.3ペソ(現在は51ペソを超えています)、中央銀行で両替しますとピン札が手に入りましたが、1万円で330ペソ(1ペソ約33円、なお、現在は1万円で約4,500ペソ、1ペソ約2.2円)の時代でした。タクシーの初乗り料金が当時は2.5ペソ(82.5円)、現在が40ペソ(88円)ですから、似たような物価水準だと思います(当時は1972年の沖縄返還後、それまでの米国式の左ハンドルから本土のように右となりましたので、沖縄で使用していた左ハンドルのタクシーがマニラに溢れていました。一部は沖縄で使用していたメーターを依然として使用していたため、タクシー内には料金の換算表がありました。これは理財局某氏から伺った当時の「秘話」ですが、返還前夜、極秘に多額の日本銀行券を沖縄に輸送したそうです。)。

ともあれ、ペソドルの公定レートがアキノ暗殺直後は、それまでの8.3から11に、14に、さらには17、最後には21ペソ/ドルと大混乱を極め、現地の人は自嘲気味に我々の経済は「banana economy」(バナナは下に垂れ下がっているため)と言っていました。こうなりますと、ブラック・マーケットの両替商があちこちに出来、持ち運びにかさばらない100ドル札は一番高い交換率(公定レートの5割増し)となり、以下50、20と下がるに従ってそれなりの交換率になっていましたので、これこそ生きた経済なのだ、と不謹慎にもそう思っていました。日本のテレビ局が連日詳しくこの暗殺を報道しましたので、一部のビデオテープがマニラにも流れてきて、何回も通訳をさせられました。今となっては懐かしい思い出です。

この年の11月にはUNCTAD本部の決定でマニラが正式なプロジェクトのduty stationとなり、翌12月には家族が合流し、右ハンドル車も程なく届きました。国連の職員規則には、国連が費用負担する引っ越し貨物の例外に二品目があって、一つがピアノで他の一つが自動車でした。半年の横浜における倉庫料を気にかけてくれたのかどうか不明ですが、自動車の運賃及び保険料をカバーして頂きました。自動車の通関にはUNDPのローカル職員が手助けしてくれるのですが、通常は税関だけで最低1週間要するとのことでした。そこで筆者自ら出向いて交渉しましたが、運よくJICAの税関研修を受講された人が輸入部長とわかりお願いした甲斐があって、二日半で引き取ることができました。日本だと「仮ナンバー」などの手続きなどがありますが、当地では、段ボール紙をナンバーの大きさに切って、「For Registration United Nations」(登録申請中・国連)と書いて正式な外交官ナンバーが届くまでの3か月間この「仮」ナンバーで走行しました。現在、右ハンドル車は輸入が禁止されていますが、当時はOKでした。もっと言えば、当時は完成車の輸入が禁止されており、10年落ちの中古車でも高値で取引されていました(筆者の場合は外交官に準じる国連職員の自動車の輸入に該当し規制外の扱いでした。)。筆者もこのおこぼれにあずかった一人でした。

CCC(現WCO)の通関条約の一つに引っ越し貨物の便宜を図るためのものがありますが、条約上免税待遇が与えられる引っ越し貨物は原則として本人が入国してから六か月以内に届いたものを対象にしています(実は、関税局輸入課でこの条約を担当していたので六か月の期限は承知していました。しかし、車がないと大変なことになりますので必死でした。日本の国内法では、例えば、関税定率法第14条(無条件免税)8号には引越貨物が規定され、これを受けた同法施行令第14条(別送する携帯品又は引越貨物の免税の手続)第1項には「税関長がやむを得ない特別の事由があると認める場合を除く外、その入国後六月以内に当該物品を輸入しなければならない」とされています。)(自家用車の場合は特定用途免税規定が働き、同法第15条の適用があり、免税輸入から2年間は転売ができません。)。筆者の場合、UNCTAD本部の決定によって六か月を超えてしまったため、フィリピン外務省から認められないとの連絡がUNDPに入り、直接、外務省に経緯の説明(本部の暫定的、確定的なプロジェクト所在地決定に関する文書を携行)をし、再度陳情しました。フィリピンでは、冗談で「Nothing impossible, anything possible」と言い合いますが、これを地で行ったような感じでした。

住まいについての選択ですが、これから先も一軒家に住めることはないであろうとの現実的な思考のもと、最初の1年はビレッジと呼ばれる外部と隔離された住宅地の一軒家を借りました。ところが、アキノ暗殺事件を境に様々な流言飛語が飛び交い(後日、クーデタ騒ぎも勃発してマカティ中心にあったJAL系のManila Nikko Garden Hotelは銃撃を受けました。)一軒家は治安上リスクが高いということで、残りの1年半はUNDPに程近い日本でいうマンション(当地ではコンドミニアムと呼ばれる。)に越しました。ワイフもあちこち出かける用事が増えましたので、運転手を雇用し、またメイドさんを二人雇っていましたが、3人で月2万円(運転手は週6日勤務で1万円、メイドさんも週6日勤務、住み込みで一人五千円)でした。それでも現地の相場からは高いと言われていました。メイドさんになる人は必ずしも栄養状態が良くない場合が多く、また、二人の子供が幼少なので、雇用に当たり結核検査を含む健康診断をしてもらいました。これは外務省の方から聞いたことですが、外交官でも最初の任地に関しては大好きになるか、または、大嫌いになるか、この二つしかなく、その中間の評価というものは普通ないと思う、とのことでした。筆者は現在も居住していることからもお分かりのとおりはっきり前者です。

【南米エクアドルとペルーにおける初のGSPセミナー】

本来業務に戻りましょう。1982年6月某日、マニラ−ホノルル−ロスアンゼルス(ハワイ−ロス区間は米国内便扱い、このため、同じ飛行機に乗るのですが一旦ハワイ空港で通関して再チェックイン)−メキシコシティ−グアヤキル−キト(Quito)(ロスから最終地までは同じ飛行機でしたが経由地が多いのでした)の経路で経由地の待ち時間を合わせますとマニラから約35時間だったと記憶しています。ロスまでは憧れの(今はない)パンナムのクリッパークラスでした。ロスからは、Equatoriana Airlinesというエクアドルの国営航空(2005年に消滅しました)でしたが、チェックインが空港の建物の外側という扱いで出発が23:59という半端と言えば超半端な時間でした(実際の出発は朝の二時頃でした。)。問題はセキュリティ・チェックで起きました。筆者の前に並んでいた南米出身の夫婦らしきカップルのうち女性が金属探知機の通過を繰り返すたびにピー音が鳴るのです。その都度、ポケットから金属製品を出すのですが依然として鳴り止まないため、しまいにはボディチェックを受けたところ、腰の部分から小型の拳銃が発見され警察に引き渡されました。この光景を見て一気に眠気が覚めました。ここは米国なのだと自分に何回も言い聞かせていました。

やっとのことでエクアドルの首都キト(標高2,850m)に着きました。出入国カードはすべてスペイン語で隣の席の英語を解する乗客の助けを借りました。長旅の疲れ(乗降機の繰り返しで汗をかいたり機内で急激に冷やされたりしたため)と標高にやられ軽い肺炎状態になりました。ホテルで早速お医者さんを呼んでもらい、お尻に注射(多分ペニシリン)を打たれ翌朝は殆ど回復していました。約70ドルかかりましたがこれは必要経費でしょう。エクアドルは英語で赤道を意味するequatorを国名にした国でありタクシーで30分も走れば両足で北と南半球を挟むことができます。出張者全員で赤く引かれた線をまたいで記念撮影をしました。オイルショック前までは、日本のバナナ輸入の約七割がエクアドルから来ていて、ブラジルやペルー同様日本人入植者もあったそうです。

残念ながら筆者のデビュー戦であるキトのGSPセミナーのことは全く記憶にはないのです。不完全な健康状態のせいで記憶が飛んでしまったのだと思っています。ただ、手許にある同年6月4日付現地新聞には、第1面にカラー写真入りで我々のセミナーがキトにある中央銀行で開会されたと記され、上司を含む西ドイツ、オーストリア、米国、カナダ等9名の専門家が写っています。筆者はわざわざ地球の反対側から来たということで「お客さん」扱いをされ、何と一番上席に座って写っています。
(新聞のコピー参照)

一つだけ覚えていることがありました。エクアドルはオイルショック直後辺りまでは前述の通り日本へのバナナの一大輸出基地でした。それから数年後、その地位を失い現在では、日本のバナナ輸入の9割以上は我がフィリピン産となっています。もちろん、最近でもエクアドル、コスタリカや台湾のバナナは日本の市場の常連です。覚えていたのは、参加者の一人からどうして日本のバナナ輸入が大幅に減少してしまったのだ、という質問があったからでした。このときは勉強不足で答えられず口を濁しました。マニラに戻ってバナナに詳しい元日本商社員を紹介してもらい詳しく伺いました。これが本当の話なら、愕然とする内容でした。

オイルショック直後、一次産品を含む天然資源全般に対する途上国の発言権が強まる中で、エクアドルのバナナ生産・輸出業者団体は、バナナの高騰した価格が今後数年は続くものと見込んで、値決め交渉で高飛車に出たそうです。結局、値決め交渉は決裂し、大手バナナ生産者(例えば、デルモンテ、ドール、チキータなど)はバナナ生産の代替地を探し求め、白羽の矢を立てたのがフィリピンのミンダナオ島でした。ここに4つの巨大なバナナ資本が投下され、その一つに某日本商社が入っていました。数年後、バナナの供給事情が様変わりして、フィリピンが日本へのバナナの一番の供給地となりました。生食用ではどのような品種の生産状況かと言いますと、ミンダナオのバナナ・プランテーション農園では、国内出荷用に現地でラカタン(lakatan)と呼ばれる品種を栽培(台湾バナナに類似しており、どちらかというと小振りであり中が黄色で甘みが強いのが特徴です。この他にもやや酸味の強いローカルな品種(ラツンダン、latundan)や極めて小ぶりなセニョリータないしモンキー・バナナと呼ばれるものなどがあり、また、甘みがなく蒸したり揚げたりする料理用の品種があります。)する一方、輸出用には大振りで見栄えが良く規格が統一できやすいキャバンディッシュ種(Cavendish)を栽培しています(現地の人はラカタン種の方が甘いのでキャバンディッシュ種はほとんど食べません。)。

2017年12月11日 掲載
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