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原産地関係エッセイ・論文・講演資料

連載 第三十三話−UNCTAD・GSPセミナーこぼれ話(その4)−

マニラにおける最初の3年間は初めての海外勤務、かつ、多くはありませんでしたがマニラから世界各地に出張ができたということもあり、UNCTAD勤務駆け出し時期における強烈な思い出として残っています。このため、マニラ勤務時代のセミナー活動については訪問国についてもれなく取り上げていこうと思っていますが、その後のジュネーブ本部勤務時代以降のセミナー活動のエピソードについては、体裁を変えて異なった切り口から取り上げていきたいと思っています。

【技術協力としてのGSPプロジェクト】

GSPプロジェクトは資金協力ではなく、技術協力です。知識・ノウハウの開発途上受益国への移転を目的とした技術協力のメニューはそれほど多くはなく、大別して三つに集約されます。それらは、セミナー、ワークショップ、シンポジウムなど名称はどうあれ「会合・会議」を開催すること。次に、技術協力の対象分野に関するハンドブックやマニュアルなどの「文献・資料」を作成すること。そして、専門家が受け入れ国に行って実地で指導すること(UNCTADではこのような指導のミッションをadvisory missionと呼んでいました。)です。原資は、アジア・太平洋地域のプロジェクトはUNDPでしたが、ジュネーブ本部の原資は当初10年間がUNDPで以降はUNCTAD加盟国の任意拠出金(殆どが日本、北欧、EU、スイスなどの先進国からでした。)。このため、本部プロジェクトの責任者である調整官というかCoordinatorの重要な仕事の一つが、関心ある先進国を訪問して資金拠出を要請するfund-raising missionでした。ジュネーブ本部に移ってからは、本部プロジェクトの資金管理を任されましたので、残余の資金でどれだけセミナーが企画できるかがポイントでした。地域プロジェクトでは、筆者の場合、外務省予算から国連への専門家の貸与という形態をとりましたので、in-kind contributionでした。このようにUNCTAD勤務の最初の三年間は日本政府による協力でしたので、セミナーが終わるごとに在マニラ日本国大使館に出向き筆者の起案したセミナー報告書を手渡し、大使館から公電・公信として東京に送付してもらっていました。その後の勤務は、UNCTAD通常予算や本部プロジェクト予算からサラリーが支弁されていましたので、この報告は無くなりました。

【パキスタン三都市におけるナショナルGSPセミナー】

パキスタンでは輸出振興局がホストして最大の商業都市カラチ、インド国境に近く医療器具の生産でも有名なラホール、そしてアフガンとの国境に程近いペシャワールの三都市でセミナーを開催するのが恒例でした。もとはと言えばインド英語が基礎でしょうから皆早口で、また、遠慮せず説明途中でも構わず質問してくるのには閉口しました。セミナーの冒頭にはコーランの一節の吟唱が行われること、また、閉会時には修了証書の授与式が行われ、パキスタンにおけるセミナーの特色が出ていました。カラチにはJETRO事務所があって関税局からの出向者が所長を務めておりました。

三都市の中で一番印象に残っているのはやはりペシャワールでした。アフガンに抜けるカイバル峠まで50キロの地点にあること(ペシャワールからは峠が見えますが、凹んだ部分が越えやすいので通り道になっています。)、現地の人に言わせますと三百万人に上るアフガン難民の流入があるらしく街中でもすれ違うことがあったこと(中には、アフガン・カーペットを肩越しに載せて売り歩いていました。)、仏教徒として関心のあるペシャワール博物館ではお釈迦様の各種の像(ギリシア系のような像もある。一説では一部はアレキサンダー大王配下の兵士残党の末裔が彫ったともいわれています。また、お釈迦様がわき腹から生まれ出てくる像もありました。)の展示が見られたこと、との理由によるものです。また、宿泊ホテルの近くにカーペット屋さんがあり、色々その歴史、特徴、デザインなどを教えてもらいました。ついでに気に入ったカーペットについて毎日値段の交渉をしていましたが、いよいよマニラに戻る前夜、最後の交渉で日本製の腕時計が購入価格の倍以上でカーペット代金支払いの一部となりました。別の国では日本製の卓上計算機が当初値の3倍相当で支払いに使いました。物々交換の世界を彷彿とさせますが、ひとえにこれを可能にして頂いた品質の高い日本製品に感謝、感謝です。

2年後、再度米国人の上司と共にペシャワールを含む同じコースに出張した際、我々は難民キャンプに連れていかれましたが、そこで上司が国連職員としてのコメントを求められ、閉口されていました。何気なくキャンプ地を見まわしましたら「鯉のぼり」が目に入り、聞いたところ、最近、アントニオ・エノキ氏(何度も聞きなおしましたが、イノキではなく、エノキと聞こえました。同様の例はプロゴルファーの青木氏にも起き、米国での実況放送では、エオキと聞こえました。)がエキジビションを行うため当地を訪問し、その際寄贈されたとのことでした。異国の地で鯉のぼりに遭遇し、心温まるものがありました。ペシャワールが好きになった大きな理由は土地の人の次の言葉でした「仏教が五千年、ユダヤ教が三千年、キリスト教といえども二千年、イスラム教はたかだか千四百年の歴史しかない。仏教が一番さ。」。仏教の五千年はどこから出てきたのかは聞き損じましたが、悪い気はしませんでした。

【タイ、バンコクにおけるナショナルGSPセミナー】

現在のセミナーでは、スピーカーがパワーポイントを準備し、パソコンをプロジェクターにつなげて説明するのが一般的でしょう。ところが、当時は、まだOHP(overhead projector)の時代でした。それでも筆者のように駆け出しの時代には要点が整理されたスライドが活用できるOHPは重宝したものです。バンコクにおけるセミナーでは大活躍しました。バンコク市内にはインド人街もあり繊維・衣類産業もタイの主要なものの一つでしたから、日本のGSPスキームの枠の管理などについて突っ込んだ質問を受けました。

これは後年のエピソードですが(ことの内容から書くべきか迷ったのですが)、結果オーライなので触れることにします。我々は、時間に余裕をもってUNCTADの公式文書である各国スキームやROOを解説したハンドブックなどのセミナー用資料を必要部数、開催国主催者あてに送付します。国連の公文書は「国連の特権及び免除に関する条約」上、不可侵、免税扱いとされています。ところが何かの手違いで、筆者がバンコクについたら業者からこれらハンドブックの関税支払ペーパーをわたされ、唖然としました。税関の担当者に国連の公文書なので免税扱いとなる旨説明し引き取りに行かせました。結局、資料が届かないまま開会式を迎えたところ、来賓挨拶の一人が関税局のナンバー2の幹部の方でした。先方から、上から目線で出席者に資料が配布されていないけど、用意しているのでしょうね、と声をかけられ、言わないでおこうとは思いましたが、そこまで言われましたのでエンバラシングにはなりましたが正直に現状を説明しました。午後一番で資料が届きました。

辛いタイ料理の洗礼を受けました。緑色の2センチくらいの小さなチリーが殊の外強烈で有名なスープ、トムヤムクンを啜って涙が出たものです。タイ料理には必ずと言っていいほど使われる香草というかハーブの一種、パクチー(せり科で英語ではcoriander)が苦手の人にとってはタイ料理が好きになれないかもしれません。町の屋台には結構様々な昆虫類のから揚げがあり、好事家の対象でしょう。タイの東北部はイサーンと呼ばれ平均収入がタイの中でも低い方ですが、ここでの常食はもち米でした。手で蚕くらいの大きさに丸めてソースにつけてたべたりします。不味くはなかったのは、アリの卵のオムレツでした。この辺で止めましょう。

在バンコク日本国大使館は東南アジア地域の中でも大きな部類に入ると大使館某職員から聞かされました。なんでもほぼすべての省庁からの出向者があるため、行政官による「閣議」開催も可能とか。在留邦人数も半端ではなく、マニラと比べますと日本食材の豊富さとその値段の安さには圧倒されました。身近な物では「カイワレ大根」がありました(35年前の話です!)。ただ、当時は市内の中心までは空港から離れており、高速道路網も完備されていなかったので渋滞に悩まされました。このため、渋滞に巻き込まれてやむなく用を足す用具、Comfortと呼ばれた一種の「尿瓶」が売られていました。大使館職員でも会議に間に合わないときは、「バイク・タクシー」にお世話になった方も多いのではないでしょうか。渋滞で思い出すのは、後年、アジア通貨危機がタイを襲った際のエピソードです。何と、町中が暗く、景気が悪いため渋滞が解消されていたのでした。

【韓国】

日本のJETROの韓国版KOTRAのホストで国内三か所でのGSPセミナーに参加しました。まず、ソウルに入り、高速道路で南下を続け、釜山が最後の場所でした。赴任2年目に入り上司はインド人に代っていました。この背景には次の出来事がありました。ジュネーブ本部から退職間近のフィリピン人職員が(多分最後の公用出張に来ていたのですが)、筆者の女性上司と某ホテルのロビーで衆人環視のなか激しくお互い罵りあいを演じ、取りつく島もなく一人オフィスに戻りました。この原因は承知しているのですが、誌面を汚してしまうことになりますのでご勘弁ください。

閑話休題。KOTRAの担当者とは10日間程、道中一緒だったので最後には打ち解けあって、しまいには釜山の屋台でマッコリを飲みながら、イイダコの踊り食いをしました。翌日は東京経由マニラ行きだったのですが、二日酔いで使い物にはなりませんでした。これは眉唾ものかとは思いますが、南下する高速道路が時々直線で広くなっている場所が数か所ありました。聞いたところ、危急の時は戦闘機が発着できるように作られているのだ、と。釜山近郊は農村で、水田が広がっており、これまた、KOTRAの人に聞いたところ戦中はお米を日本に送っていたとのこと。土手沿いに桜並木もあって、これは日本人篤志家の寄贈によって植えられたとのことでした。

2018年1月15日 掲載
文中、意見に及ぶところは筆者の個人的な意見であり、JASTPRO又は関係諸機関の見解ではないことを予めお断りしておきます。

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