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原産地関係エッセイ・論文・講演資料

連載 第三十五話−UNCTAD・GSPセミナーこぼれ話(その6)−

【スリランカにおける大事件:外出禁止令】

スリランカ首都コロンボには1976年に総理府主催の「青年の船」で寄港しているのですが、その時は、人気女優の栗原小巻女史が現地で映画撮影中ということもあって監督と共にわざわざ船にご足労いただきました。当地は、土地の人によりますと、ダイアモンドを除く貴石・半貴石の殆どが採掘できるということでした。スリランカでのセミナーは、1984年にあり、米国人の上司との出張でしたが(上司はジュネーブ本部から、筆者はマニラからでした。)、セミナーの日程上、週末を含め三日間空きましたのでホテルの車を運転手さんごと借り切って内陸方面に上司と共に二泊三日の小旅行をすることになりました。初日は、緑のじゅうたんそのもののような高地のお茶畑や天然ゴム園などを見て回りホテルに着きました。問題は翌日の朝起きました。

スリランカでは仏教徒で国の約70%を占めるシンハリ人と、英国がお茶のプランテーションの労働力として南インドから連れてきたヒンドゥー教徒で約20%を占めるタミール人との間の対立が1980年代前半から激しくなってきておりました。朝食時、ホテルのラジオ放送を聞いていた上司の手が突然止まりました。みるみる顔が強張ってきました。「curfew(戒厳令に伴う外出禁止令)が発令された。今日は土曜だから明日中にはコロンボに帰らないと月曜からのセミナーが開けない。」。筆者はもとよりcurfewなど今の今まで聞いたことのない語彙でしたので危機感がさっぱりなく、これがかえって上司にある種の安堵感を与えたようでした。

ともかく早速宿泊地を管轄する警察署に赴き、署長に国連のパスポートであるレセパセを提示して、どうしてもコロンボに戻らなければならない公務上の理由を伝え臨時の「移動許可書」を書いていただけるよう交渉しました。押し問答の末、入手に成功しました。問題はガソリンの補給でした。ゲリラ組織が遠くに移動できないよう布告では車一台につき一日10リッターに制限されていたのでした。この制限について補給可能なスタンド毎に10リッターの補給を認める一文が追加されました。ここまできますともう食事どころの話ではなくなっていました。

可哀想だったのは運転手さんでした。今は笑い話で済まされますが、土曜の昼近くにランチもとらず一路コロンボに向け(行程約200キロ)出発しました。途中、要所、要所(大きな分岐点、峠の頂上や多分、異なる行政区の境の地点)に兵士がライフルを構えて停止するよう手振りで指示してきます。運転手は、警察署長からの手紙を持ち、両腕を高く掲げ、ビビリながらゆっくりと兵士のところに歩いていくのでした。この車はホテルの所有で両側のドアには誰でも知っているホテル名が入っているのですが、残念ながら車の前方に位置する兵士には見えませんでした。途中通過する町に入る度に我々はガソリン・スタンドを、目を皿のようにして探し、10リッターの確保に努めました。車の往来はこの特殊事情下では多くあるはずがなかったのですが、いつチェック・ポイントが現れるかわかりませんのでスピードは出せませんでした。兵士のチェック・ポイントはコロンボまで15ヵ所ほどあり、その都度、運転手は下りて兵士のところに行きました。3回ほど兵士が我々のところまで来ましたが、国連のレセパセを提示しました。どういうわけか、コロンボに近づくにつれ、チェック・ポイントは少なくなってきて車の往来も増えてきました。日が落ちてしばらくたってからやっと我々のホテルが見えました。運転手さんには多めのチップを渡し、「無事の生還」をお互い祝いました。我々は何も食べずコロンボに着きましたが緊張が解け安心したとたん急に眠気に襲われ、上司の「ジョニ赤」(先進供与国の専門家を含めすべてのミッション・メンバーには毎夜の「反省会用」に「ジョニ黒」各自一本持参するよう内緒のおふれが出されていました。これとは別に、上司は反省会後の自己消費用に「赤」を持参するのが常でした。)を多めにひっかけ、ひたすら眠りました。

実は、この数か月前、上司の指示によりパキスタン(カラチ)、バングラデシュ(ダッカ)、そしてスリランカ(コロンボ)の三ヵ国をadvisory missionやらセミナーの準備、また、その最終確認と打ち合わせを兼ね備えた多目的で出張していたのです。この時の経験を上司には伝えていなかったため、今から思うと伝えていたなら小旅行はあるいは思いとどまったのではないかと考えています。その経験とは、確かUNDPコロンボ事務所から連絡があったと思うのですが(業務を終えてコロンボからバンコク経由でマニラに戻る予定)、政府の用意したバスに特定の便名の乗客が主要ホテルに待機、揃ったらコロンボ空港に向かうと。エアコンもないバスがホテルに来て皆無言で乗りました。途中、兵士を多く見かけました。空港の入り口近くで降ろされ、警察によって荷物の検査を受けた後、正規の空港バスに乗り換えでターミナルに到着後チェックイン、やれやれという感じでした。この時の経験以来、出張には最低限の荷物で身軽で出かけるよう心掛けています。

35年前は今のように便利なコネクティング・フライトが発達していなくて、目的地まで時間に無駄とならないように円滑には着きません(悲惨な光景は、まだ「アパルトヘイト」政策がとられていた時の南アのヨハネスブルグ空港で目にしました。近隣諸国の黒人は入国すると危険が増しますのでコネクティング・フライトが来るまで、二・三日空港内でひたすら連絡便を待ち続けるのでした。)。もっと昔は、日本からジュネーブまで南回りのプロペラ機だと三日要したと聞いたことがあります。この三ヵ国へのadvisory missionも簡単ではありませんでした。カラチはアジアと欧州の中間なので到着が大体深夜になります。暑さを避けられますからいいのですが、それからホテルに向かうわけです。カラチからダッカまではインドのニューデリーを経由しました。ダッカからコロンボが難所でしてマドラス(現チェンナイ)で乗り換えました。なんでもIATA(International Air Transport Association: 国際航空運送協会)に加盟していない航空会社とのことでトランジットであるにもかかわらず、乗り換え地点で空港税(Airport Taxと普通言いますが、実際には多くの場合空港施設使用料)を徴収されました(IATAルールではトランジット客は乗り継ぎに際し空港税の支払いを求められることはないとされています。)。いいことなのかどうかわかりませんが、色々場数を踏みますと物事に動じなくなり、自ずとたくましくなります。

【インドネシアへのプロジェクト・オフィス移転】

ジュネーブ本部においてどのような合理性に基づいてマニラ事務所の移転に関する決定が行われたのかは、マニラにいる限り現在ほどeメールなど発達しておらず連絡も密ではありませんでしたから、全体の流れを把握することは困難でした。上司から後日、本部で伺ったところ、地域プロジェクトについてはその所在地のあるGSP受益国が一番裨益するため二〜三年毎に地域事務所所在地を変えることが望ましい、この場合、現実的にはASEANの中で移動するのが理想であろう、とのことでした。筆者が当時受け取ったのは、インドネシア当局と合意が成立したので、マニラ・オフィスのプロジェクト関係書類などをジャカルタに移管するよう手続きを進めるようにとの指示でした。当時、インドネシア政府には産業政策を担当する省と貿易を担当する省に分かれていました(現在は一つです。)。後日、民間ビルに移転しましたが、当初のインドネシア・オフィスは、貿易省の中におかれていましたその後、地域プロジェクトの所在地は、ジャカルタからマレイシアのクアラルンプール、そしてタイ、バンコクにあるESCAPに移転しました。)。

移転事務のためジャカルタに行く頃には既に筆者はその後にジュネーブ勤務が決まっていましたので、移転手続き終了後はその足で本部に向かう手筈になっていました。UNDPマニラ事務所からの「外交行嚢」(diplomatic pouch)による移送の手続きも完了し、UNDP幹部への挨拶を終え、3年間お世話になったマニラにお別れを告げ機上の人となりました(14年後にADB勤務となり再度居住することになるなどこの時は考えも及びませんでした。)(蛇足ですが、UNDPには各国連専門機関や各プロジェクト宛てにレター、政府からのメールやファクシミリなどを置く箱が設置されていましたが、この箱を英語では、pigeon box「伝書バトの箱・棚」といいます。)。

ジャカルタに着いた翌日、貿易省のこのプロジェクトをホストする担当総局長のところに挨拶に向かいました。若造なので軽く「髭」は生やしてはいましたが、インドネシアでは通常男性は髭を生やしていますので、先方は「若いな」という印象をもったようでした。近々、当プロジェクトの責任者のフィリピン人のRegional Advisorと日本から専門家(Associate Expert)が着任予定ですので、可及的速やかにプロジェクト活動が開始される予定ですなどと説明しました。ここで気が付いたのは、インドネシアはコーヒーの大産地なのにコーヒー一杯、いやお水一杯も提供されない。もしかするとUNCTADは招かねざる客なのではないのかとの思いが一瞬頭をよぎりました。ともかく合点が行かないまま挨拶を終え、その後、担当者によってプロジェクト・オフィスに通されましたが、そこにはマニラから送ったパウチが段ボール箱そのままの姿で積みあがっていました。全量間違いなく到着しているかどうかの確認をまず行いました。このオフィスにおいてもお水一杯も提供されないので聞こうとした瞬間、「申し訳ありません。現在、ラマダンに入っていますので宗教上の理由から日没まで我々は何も口に出来ないのです。」と先方から言われました。ラマダンという語句は知っていましたが、実際の内容・意味・時期・期間までは経験もないため全く無知でした。この1年後、GSPを活用した輸出振興に係るインドネシア・ナショナル・プロジェクトで4ヵ月のジャカルタ滞在、ADB退職後、JICA技術協力プロジェクトで1年間ジャカルタ勤務とラマダンをはじめイスラム文化に接することへの序章としては強烈なプロローグでした。

2018年2月15日 掲載
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