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連載 第三十七話-UNCTAD・GSPセミナーこぼれ話(その8)-

【GSPセミナー企画基本方針の概要】

マニラ地方勤務というある意味研修の延長のような3年間を終えジュネーブUNCTAD本部勤務となり一人前の仕事に近づいた感のある段階となってきましたので、今回以降は、取り上げるエピソードも訪問地一か国の枠を超えた切り口で迫ってみたいと思います。「セミナーこぼれ話」と銘打っていますが、こぼれ話だけとなっている嫌いがありますので、GSPセミナー企画の概要にまず言及したいと思います。

基本的にはセミナー開催地というか受益国のニーズにあったtailor madeなものとするように努めました。即ち、GSPの基本が必要な受益国、GSP輸出が軌道に乗り数量制限を課され始めた受益国、一部の品目について「卒業させられた」受益国、更には、GSPというよりもダンピングとか相殺措置とかを打たれ始めている受益国というように大まかに発展段階に応じた区分を行って、先方の希望を取り入れながら、セミナーの中身を確定していき、これと並行して、必要とされる専門家の手当てを開始しました。もちろん、先方との協議にはサブであるGSPや貿易救済措置について詰めると同時に、具体的な開催時期、期間、必要とされる資料と部数、会場、設備、想定される参加者数等のロジスティックスの面についても確定していきます(この過程において、セミナー開催原則合意から実施、報告書作成までの一連の進行をカード方式で管理する試みを提案し、トライアルで行いましたが上司には好評ではありませんでしたので自分用のメモとすることにしました。)。

基本的には、ナショナル・セミナーの開催期間は2〜3日間、地域セミナーは3〜5日間が標準でした。毎年の特恵特別委員会にセミナーなどの技術協力事績を報告しましたが、ナショナル・セミナーの場合は参加者の数が稼げますが国の数としてはプレイアップできません。他方、地域セミナーは国の数は稼げますが、参加者の数では見劣りします(予算の関係で各国1名、多くても2名が限度でした。なお、主催国については旅費・日当が不要ですので多めのオブザーバー参加を認めました。)。

新規の国で開催したいというのは人情でしょうが、例えば、ナミビアが1990年に独立した際、各国際機関がこぞってナミビアで技術協力活動を実施するラッシュとなりました。我々GSPセミナーもこの流れに遅れることなく企画、実施しました。尤も参加者数は威張れる数ではありませんでしたが。率直に言って、我々専門家の方が新独立国について勉強しに行った感がありました。休日、部下だったイタリア人とともにランドクルーザーを駆ってナミブ砂漠を横切り大西洋に出て、ついでに、一日有効な南ア入国ビザで南アに入り海岸線を走りました。タイヤが砂にとられて出られなくなった時は、現地の人に助けて頂きました。四駆車のタイヤのロックをオフにしたのか、簡単に抜け出すことが出来ました。話題が脱線し始めましたので、この辺で打ち切りとしたいと思います。

【世界の高地における活動エピソード】

今から思いますと結構高地でセミナーを開催してきました。高い順に並べます。

① ラパス、ボリビア

約3,800m。(空港で職員からここは標高4,200m、君たちが泊まるホテルはずっと下の3,800mと言われたのですが、Wikipediaで調べましたら、空港は4,071mでした。)ラパスはすり鉢状の盆地という地形で10日ほど滞在しましたが、着陸後空港ロビーでゼイゼイしていましたら、係員から「荷物は持ってはいけない。走ってもいけない。一気に飲んではいけない。アルコールは酔いが早まるから控えよ。」との一般的な注意を受けました。現地UNDP事務所からは、「昼は活動しているので普通の量を食べてもいいが、夕食は軽めがいい。沢山食べると空気が薄く活動もしていないので消化できないため腹痛になる。(これは眉唾だと感じましたが)以前、ある国連の専門機関職員が食べ過ぎて死亡したことがある。」との注意事項を頂きました。宿泊ホテルの部屋と廊下には携帯用の小型の酸素ボンベが置いてありました。最初のうちは、熟睡が出来ず2時間くらい寝ては目を覚ますことを繰り返していました。高山病なのか軽い頭痛もありました。セミナーでは、長くしゃべれないので休み休みでしたが、スペイン語の逐次通訳が入りましたので願ってもない助け舟となりました。

ホテル各室では、コカの葉から製造する「mate de coca」茶が常備されておりこれを飲みました。町中には普通に売っており、お土産にと一瞬思いましたが税関で誤解のもとになるのではないかと考えを変え購入はしませんでした。一説には、低酸素対策として酸素を運ぶ赤血球の数を増やす効果があると言われていますが、実際はどうも頭痛の緩和のためのようでした。ここのセミナーの1年位前にラ米の某国で地域セミナーがあり、一番よく熱心に質問したボリビアの政府職員がいて、ラパスのナショナル・セミナーにも出席していましたが、休憩中に立ち話をしましたら、現在はGSPを利用した貿易業に転職し政府の役人時代より実入りが良いと言っていました。この転職を素直に喜ぶべきなのでしょうか、複雑な思いでした。この人に休日市内を案内されましたが、その中に「白い家」(Casa de Blanca)という豪奢な家を見せられました。真意はコカイン(色が白い)で儲けたお金で建てた家との噂がもっぱらの家とのことでした。

夕食後、バーに案内されましたが心臓の鼓動が普通以上となりましたので早々にホテルに引きあげました。宿泊ホテルの真ん前が大きな体育館で、ホテルの人に聞きましたら、南米地区のバレーボール選手権を行っているとのことでした。こっちはまともに息をするのが困難なのに選手権開催とはビックリしたものです。10日間近く滞在しジュネーブに戻ったのですが、高地に少しは適応したようで酸素が濃すぎて二日間位はまともには寝つけませんでした。マラソン選手の高地トレーニング効果の一端を垣間見た思いです。

② キト、エクアドル

2,850m。以前書きましたように当地は筆者のセミナー・デビュー戦の地でした。ミネラルウォーターが低地のように普通に飲めず、むせて咳き込んだのを覚えています。

③ サンタフェ・デ・ボゴタ、コロンビア

2,640m。ここもラパス同様盆地で、空港は盆地の中央に位置していたという記憶があります。エメラルドが有名でUNCTADのコロンビア人の同僚から買わされました。この人は、UNCTAD退職後、自分の出身地の町長をしていると聞きました。もっと言いますと、この人は筆者の最初のチリ人の上司が南米におけるセミナーに必ずお呼びしていたコロンビア貿易省の役人で、これが縁でUNCTAD職員になりました。筆者が課長代行の頃は、氏はGSP課とNTM(Non Tariff Measures)担当課を半々で勤務していましたので部下と言えば部下ということもあって、南米でのセミナーには何回かは一緒に出張しました。

④ ティンプー、ブータン

約2,400m(唯一の国際空港があるパロは、約2,300m。)。アジア最後の秘境と言われたブータンは、当時、一日の入国者数を制限する国でした。ボーイング737型機よりも一回り小さな飛行機なのですが、4発のエンジンがあって、上空を回りながら風が収まった頃を見計らって山頂に着陸するイメージでした。パロから首都ティンプーまでは川に沿って峡谷をそれも柵のない未舗装の道路を1時間強かけて行く結構スリリングな行程でした。事前に現地UNDP事務所にランドクルーザーを予約しておきました。セミナーは川辺に建てられている国会議事堂内の会議室で行われ、GSPの基礎を中心に説明しました。多少なだらかな斜面には何とゴルフコースが見え、土地の人に聞きましたら9ホールのブータン唯一のコースとのことでした。航空便を除く外国貨物はすべてインド側を経由して行われ、インドには電力を輸出していました。東京税関出身で最後は同税関輸入部長までなられた人の親友が「ブータン農業の父」と称号を付けて今でも呼ばれている故西岡京治氏でした。やはり、訪問中、氏のことが話題に上がりました。車で二時間ほど峠まで案内して頂きましたが、電柱など無く自然そのもので、素朴なつくりの家屋の庭に親鶏がひよこと一緒に駆け回っているさまに癒されたものです。これは後年の話ですが、実は、ブータンで「松茸」がとれるのです。ADBの友人の一人がブータンを担当していてマニラで松茸パーティとしゃれこんだことを思い出しました。

⑤ アジスアベバ、エチオピア

2,355m。アフリカは暑いというイメージが先行していますが、東アフリカは結構高地に位置している関係でしのぎやすいのです。隣国ケニアのナイロビには、国連環境計画(UNEP: United Nations Environment Programme)などの国際機関がおかれているのも決して偶然ではありません。セミナー会場への途中に陸上競技場がありました。オリンピック・マラソン種目で史上初の2大会(ローマ大会:1960年、東京大会:1964年)連続優勝を果たしたエチオピアの英雄アベベ選手の写真が掲げられていました。41歳の若さで亡くなったことは本当に残念なことです。温泉を売り物にしているホテルではなかったのですが、なぜかバスタブの蛇口をひねると温泉に負けないくらい熱いお湯しか出てきません。注意書きを残し、捨てられないようにして、程よい加減になるまで待って使いました。米国人の上司にもこの方法を伝えました。

⑥ ナイロビ、ケニア

1,661m。(市内の一部が国立公園になっていました。)。日本がUNCTADのGSP技術協力事業に任意拠出することが決まり、アフリカ地域で日本の関心ある国の一つはケニアに違いないと勝手に決め込み、企画書を提出しました。これが認められ、実際のセミナーには旧労働省出身の佐藤ギン子大使に開会挨拶をして頂きました。日本人、それも女性の大使ということで現地のプレスも数社来ていたように記憶しています。翌朝、現地の新聞をすべて買いあさり、掲載された記事を外務本省宛てに送付するため切り抜いたことは申すまでもありません。「仕掛け人」としては、してやったりという気持ちでした。休日、上司と共にミニ・サファリに参加しました。象はケニアでも南部に行かないと見ることは出来ないのですが、定番のライオン、キリン、ダチョウ、サイなどを見ることが出来ました。

⑦ 番外

ティワナク遺跡(約4,000m)とティティカカ湖(3,810m)。米国人の上司がマイクロバスでのツアーに空きがあるので日帰りで高地遺跡巡りに行かないかとの誘いを受け参加しました。ボリビアの首都ラパスから3時間位のところに周りは草だけが茂り、樹木が一本もない荒涼とした平原の真ん中に、ティワナク遺跡がありました。祭祀用として用いられたインカ時代の遺跡でしたが、当時は柵など無く勝手に入って見学ができました。現在は周りを柵で囲われ、入場料も徴収しているようです。アメリカ人ファミリーも一緒でしたが、四千メートルの標高下で何とブランデーを回し飲みしながら見学していて、バイタリティーの違いを見せつけられました。さすがの上司も飲みたいとは言いませんでした。ティワナクから1時間ちょっとだったでしょうか、ティティカカ湖が見えてきました。一部の原住民は葦のような草を乾燥させて浮島を作り、これを住居としていました。富士山より高いところにある淡水湖で、昼食は(魚嫌いの上司も選択肢がない)魚料理でした。この湖は、実はペルーとボリビアとの国境にまたがっています。

高地の酸素不足のバスの中で考えたことに触れて今回の締めにしたいと思います。その太古の昔、日本人の祖先ともいわれるモンゴロイドがはるばるシベリアからアラスカにわたり、一部はアメリカ・インディアンになって残り(新大陸発見時には約一千万人のアメリカ・インディアンが住んでいたと言われています。)、他は更に南下を続け南米にたどり着き、高地にインカを興し、また、アンデスの民となり、ついには南極を望むアルゼンチンの地の果てにたどり着いて遥かなる旅を終えた。この悠久の時に想いをはせるとき、一人の人間というものがいかにちっぽけな存在かを愚考した次第です。

2018年3月15日 掲載
文中、意見に及ぶところは筆者の個人的な意見であり、JASTPRO又は関係諸機関の見解ではないことを予めお断りしておきます。

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