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連載 第四十話-UNCTAD・GSPセミナーこぼれ話(その11)-

最近はある切り口によるトピックで数か国をひとまとめに書いてきましたが、今回は世界の大国の一つ中国とASEANの雄で世界一のイスラム国であるインドネシアなど国名単独で取り上げたいと思います。1980年代の中国やインドネシアですから、最近これらの国に訪問された読者には違和感があるかと思いますが、こういう時代もあったのだなとの寛大な気持ちでお読み頂ければ幸いです。

【中国】(ADBにおける正式名称はPRC: People's Republic of China)

1980年代央から数回出張しましたが、北京、上海、広州、深圳などでセミナーを開催しました。最初は出席者数の多さにびっくりしたものです。最低300名は参加していたでしょうか、一心不乱に黙々とノートを取るさまはまさに「学習」そのものでした。質疑応答の時間に入っても参加者から質問が出されず、代ってホスト側の関係者から短い質問が出されるだけでした。最初、通訳も講師が2〜3分話してから、まとめて中国語に訳するというようなやり方だったと記憶しています。次の機会では、参加者数は依然として多かったのですが、質疑応答では、参加者の中から数名通訳を通じて行うように進歩しました。回を重ねるごとに、中には直接英語で質問するまでになっていきました。CNNの影響はグローバルなものだと実感したのは、これら直接質問する若い中国人の話す英語はアクセントがCNN Englishそのものであったからです。1990年代に入ってのセミナーでは発効間もないHSを含めたことがありました。オーストリア税関からの専門家、分類一筋30年の某博士は通訳を入れて延々2時間講義されました。この講義に圧倒されたのでしょうか、質問は出されず、善意に解釈して詳しく全容を説明したからなのだと考えることにしました。

改革開放のスローガンのもと経済が発展するにしたがって、出張中一度は開催される晩餐会(banquet)が次第に豪華になっていきました。冬虫夏草のスープが出されたこともありました。貴州茅台酒(国酒と呼ぶ人がいますが、当時アルコール度数は65度位と極めて高かったのですが現在はもっと低くなったようです。)による乾杯はつきものでしたが、これはホスト側と我々とではハンディキャップ・マッチの感がありました。交互に立ち上がって簡単な挨拶を述べ乾杯し干した証拠に相手に杯の底を見せ合うのですが、同じ円形のテーブルのほぼ全員が行うまで延々と続くのでした。どうもホスト側の貴州茅台酒の盛りが少ないのです。セミナー閉会後であればいいのですが、翌朝プレゼンテーションがある場合には、適当に飲みました。その後、晩餐会が華美になってはいけないとの自粛令が出され、次第に普通の夕食会になっていったと聞きました。

最初に北京に出張した際、バスでそれほど遠くない万里の長城に行きました。今は笑い話で済まされますが、当時は団体皆で使用する仕切りのない便所で戸惑ったものでした。同じ漢字の文化ですので、半日程度で出来上がる安い印鑑を作ってもらったものです。当時は上野動物園に行かないとみられない「巨大熊猫」(Giant Panda)を北京動物園に見に行きましたが、ここでは並ぶ必要もなく結構な数のパンダがいました。傑作だったのは、子供のパンダもたくさんいたのですが、張り紙に(記憶が正しければ)「人工的繁殖」と書いてあったような気がします。天安門広場の近くにある紫禁城(故宮)は必見の場所の一つですが、二回目に訪問した時は故宮内が禁煙になったことを知らず喫煙して、確か、20元の罰金を支払わされました。これは眉唾物ですが、事情通によれば、故宮の「宝物」は現在三ヶ所に分散してあるということです。大きくて持ち運べなかったものが北京の故宮に、小さいけれど宝物と呼ぶにふさわしいものが台湾の故宮博物院(例えば、翠玉白菜)に、北京から上海を経由して台湾に運んだそうですが全部を運びきらず一部が上海に残ってあったそうです(現在は散逸して行方知らずとか)。

90年代早々、北京を皮切りに三か所で二週間近くのセミナーを開催し、最後は深圳でここから電車で国境を越え香港に入りました。日本人の筆者は日に三度ごはんが出されてもというか中華料理を毎日食べても文句は言わないのですが、西洋人はそうでもなく苦痛だった人もいたと見えて、香港に着いたらホテルにチェックイン後、荷解きもせず彼らは皆誘い合ってマクドナルドに直行していました。中国は大きすぎて何事につけても一般化してというか平準化して語れない国だと思います。このことは食についても当てはまると思います。庶民的なホテルで提供される朝食を見ていますと、大雑把に言って、北京を含む中国北部は「粉(小麦粉)の食文化圏」、他方、南部は「粒(米穀)の食文化圏」の様な気がします。1980年代後半、アクロバット的な演技で有名な「上海雑技団」を見に行きましたが、途中、日本のカラオケブームを反映して、和服姿の中国人歌手が演歌「氷雨」を熱唱したのには正直驚きました。演歌歌手は3名もいました。

【インドネシア】

インドネシアには、以前紹介したプロジェクト所在地移転に伴うラマダンの洗礼以後、何回となく出張してきました。通算滞在日数は、優に1年を超えていると思います。これは筆者の憶測なのですが、インドネシアにプロジェクトの所在地を引き受けて頂く見返りに、UNCTADが仲介の労をとり、UNDPの資金を活用したUNCTAD・UNDP「非伝統的な産品の輸出振興に係るインドネシア・ナショナル・プロジェクト」の設立に寄与したのだと考えています。「非伝統的な産品」とは、同国で豊富に産出する原油やその関連製品は除くという趣旨で、「輸出振興」には、当然、工業化の促進を三大目的の一つに掲げるGSPの活用がいの一番に含まれていました。当初2年、その後更に2年延長され都合4年間のプロジェクトになったと記憶していますが、1年半を過ぎたあたりで、現地責任者として UNCTADが採用した西ドイツ人で現EUを定年退職した人が勝手に辞任することとなりました。米国人の上司によれば、National Projectのせいでしょうかサラリーが現地通貨ルピアで支払われており切り下げか何かの影響で、母国西ドイツマルクによる受け取り分が目減りしたため、その補てんを国連(UNCTAD)に要請してきたというのです。このような要求は筆者にとって前代未聞で国連が各国で勤務する職員について為替差損の補填をするなどと言う話は聞いたことがありません。

このような経緯から、上司から「インドネシア・サイドは勿論、現地UNDP事務所もUNCTADに立腹している。お前が行って残りの仕事を仕上げてきて欲しい。」との指示で、結局、本誌で非特恵ROOを執筆している真打(UNCTADアジア・太平洋地域GSPプロジェクトに従事するAssociate Expertで筆者の後任者)が当時借りていた家に4ヵ月間居候をすることとなりました。早速ジャカルタに赴任して担当総局長のところに挨拶に行きました。先方は、「我が国の多くの輸出業者は、輸出とは物品を隣国シンガポールに届けることだと誤解しているのが大宗だ。このプロジェクトで、その間違った意識を改革してほしい。」との大層な注文を受けました。急いでproject documentの主要活動の進行プランを見直し、筆者が現地ですべきことと、ジュネーブに戻ってから必要な指示と定期的な出張によってカバーすべきこととを整理しました。貿易に関連する省庁から9名の研修者が選抜されており、彼らと共に貿易実務、税関手続き、GSPの仕組みなどに取り組みました。その成果を、国内10ヶ所以上でprovincial trade seminarと銘打って開催しました。キックオフのセミナーは、トラジャ・コーヒーで有名なスラウェシ島のウジュン・パンダン(現マカッサル)でした。

当時は、インドネシアからの輸出の伸びが極めて堅調であったのでその追い風を受け、GSP輸出も大幅に伸長しました。この結果、出資者である現地UNDP事務所は(西ドイツ人のことなどとっくに忘れ去り)立場上本プロジェクトが時宜を得た結果だとみなし、他方、政府関係者も期待以上のGSPを活用した輸出の伸長を喜び、身に余る謝意を頂きました。この一連のprovincial trade seminar開催には、筆者一人ですべてを行えるはずもなく、UNCTAD地域プロジェクトの大きな支援を受けました。実際のセミナーでは筆者が冒頭、プロジェクトとセミナーの趣旨と意義、インドネシアの貿易の現状、GSPの概要と今後の見通しについて触れ、閉会時にセミナーの取りまとめと今後のフォローアップ事項の整理を行うという役目でした。個々のGSPスキームやROOについては、研修者の日頃の勉強の成果発表会という性格をも持っていました。最初のうちは説明中に立ち往生する場面もあり筆者が助け舟を出しましたが、後半には不要となりました。筆者は英語で説明し、理解を深める意味合いもあって研修者が代わる代わる通訳を行う形式をとりました。何回も同じことを繰り返していますと、2〜3割のバハサ・インドネシア語がおぼろげながら理解できるようになりました(尤も、知らないふりをしていましたが。バハサ・インドネシアとフィリピンのタガログ語は同じマレー系の言語体系に属しているため同じ意味の語が結構ありました。)。出張は、バンドンやパレンバンは汽車で、バリ島やカリマンタン島(ボルネオ島)へは空路で、またハイヤーでも移動しました。

このNational Projectの終わり近くになって、UNCTADの本プロジェクト評価ミッションがTCSから来るということになり我々は善後策を協議しました(プロジェクトのprogress reportは定期的に本部に送付していました。)。ジャカルタ郊外で開催されるセミナーに参加しその様子を評価(講義の内容、質、研修者の習得状況など)するのがミッションの目的の中核でした。評価担当責任者は、南アに囲まれたレソトという国の出身者でした。研修者の張り切りようは半端ではなく、それに煽られて筆者も受け持ちとなったGSP・ROOの説明に力が入り、「真打」が中座して戻ってからも延々と説明し続けましたので、しまいにはあきれ返られました。筆者の聴衆としてはこの評価担当者1名をターゲットとしていましたから、微に入り細に入りの筆者の説明に他の参加者である輸出業者などには大きな迷惑だったことでしょう。ともあれ、我々の努力の甲斐があって、文句はつけられませんでした。

このナショナル・プロジェクトの締めくくりとして、「真打」から研修者の理解度を把握するため、アチーブメント・テストを行ったらどうでしょうとの提案を頂きました。Project Documentには特段要請されてはいなかったのですが、今後の参考になるかも知れないと考え行うこととしました。研修者の2〜3名は彼らの出身機関に結果の通知が行われるためテストには乗り気ではありませんでしたが強行しました(但し、結果の報告プロジェクト終了時はジャカルタを去る際、担当総局長への全体の総括報告の一部として触れ、その取扱いは局長に一任しました。)。結果は詳しくは書けませんが、やはり、貿易省からの三人の研修者はいい成績を残しました(インドネシア編は次号に続く。)。

2018年4月27日 掲載
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