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連載 第四十七話-UNCTAD・GSPセミナーこぼれ話(その18)-

これまでこの連載で何回となく筆者の米国人の上司について触れてきましたが、すべてが断片的でありました。この回は上司についてひとまとめにして詳しく紹介したいと思います。

【米国人上司の思い出】

筆者の米国人の上司(以下、「G氏」)は1937年ボストン生まれですが、残念ながら2009年に72歳で他界されました。先祖はフィンランドからの移民と言っていました。高校を卒業すると同時に海兵隊に入隊。オランダの米国大使館勤務(G氏によれば、各国の米国大使館の警備は伝統的に海兵隊(Marine Corps)が行うとのこと)の際、オランダ人で現地米国大使館の秘書をしていた女性と結婚。米国に戻り奥様が世銀で秘書として働き、氏は夜学に通い計量経済学の分野でPh.D.を取得。奥様の親戚にはPh.D.保持者が多くオランダでは肩身の狭い思いをしたため米国に戻り夜学に通うことを決心した由。Ph.D.取得後、オランダに行った際、奥様の親戚からMr. XXと呼ばれ、「No, no, no! I'm Dr. G.」と言い返したそうです。米国人らしいですね。他方、ジュネーブにいる間、オランダ人の奥様は最後まで我々夫婦には完全には打ち解けてはくれませんでした(オランダ人としてインドネシアの件などで日本人全体が許せなかったものと思われます。)。

G氏は身長185センチ、体重100キロ超なのですが、米国では更に体格の良い人たちが多くいますので、このくらいでは決して目立つ方ではありません(米国では航空機の乗員数上限を計算する際、平均値としてそれまでの一人85キロから90キロとすると聞いたことがあります。)。自分の国では俺は普通以下だろうと言って、得意になっていました。G氏が学んだ計量経済学とGSPとの接点は無いのではないかと思います。このため、G氏には計量経済について教えてもらった記憶はありません。専ら酒を飲みながらジョークを言い合う時間の方が長かったと思います。一回だけ、計量経済について語ったことがあって、自嘲気味に計算式に投入する数字を操作することにより、自分の希望する結果が出せるのだ、と。経済学はワンセットの前提条件をおいて結果を出すので、前提条件が異なれば結果が異なるのは自明の理だと。成長率の予測も然りだと。現在は、経済成長率予測に係るコンピュータ「ソフト」が何種か売られており、8年間在籍したADBの経済研究局(ERD: Economics and Research Department)ではADBの旗艦文書であるADO(Asian Development Outlook、ハイライトはADB加盟途上国の成長予測です。)における予測にも某社のソフトを購入、活用していました。

他界されたとはいえ彼のプライドもありましょうから詳しくは書けませんが、貧しい子供時代を過ごしたそうです。小学校の頃からアルバイトをしていたと言っていました。米国出張の折に、休暇をとって彼の田舎であるボストンに連れて行って頂きました。父親は既に他界されていて母親は養護施設に入っており(G氏が一家で一番の成功者になったため、彼が所要経費を負担しているとのことでした。)、G氏が自慢するおふくろの味の卵焼きをふるまって頂きました。G氏がNY市立大学准教授からUNCTADに勤務することを伝えた新聞記事を見せて頂いたのもこの時です(自慢の息子の突然の訪問に感極まって目頭を押さえていました。)。ワイフに言うと怒りを買うだけになりますので言わないでいるのですが、NYでG氏と共にブロードウェイの某劇場のバルコニー席で「Cats」を鑑賞しました。ワイフは日本で日本人キャストによるものを観ましたが、あれは口パクと言っていましたが、本当はどうだったんでしょうね。

G氏がUNCTAD勤務中一時期局内で孤立していた際、これを救ったのは彼のUSTRの友人で、G氏の上司と共にワシントン出張の際、某米国有力上院議員との面会でこの議員がG氏に会うなりファーストネームで親しげに呼びかけたそうです(米国では少しでも知り合いになるとファーストネームで呼び合うのは普通のことです。この場合はG氏の友人の演出でしたが)、これにはG氏の上司も感銘を受け、これを機にG氏の孤立の状況は解け仕事がうまく回るようになったとのことです。

G氏のこの友人(女性です)は米国の20はあるFTAの走りともいうべき「米・イスラエルFTA」交渉のUSTRにおける責任者でした(発効は1985年。なお、NAFTAの発効はこれに遅れること約10年の1994年)。現在は国際通商コンサルタント会社の社長をされています。ワシントンでG氏と共に夕食に招待されました。閑静な住宅地でご主人も弁護士でメイドさんを雇っている上のクラスの人でした。ジュネーブのUSTR事務所で昔勤務していた、また、当時勤務していた(筆者の見覚えのある)職員数名も招待されていました。筆者にとってこれ以上の自己宣伝の機会はありませんでした。彼らの世界を垣間見て思ったことは、人脈というのはげに恐ろしいものなのだということでした。

お返し(Reciprocity)と言っては何ですが、日本への出張の機会をとらえてG氏を北海道の片田舎にお連れしたことがあります。まだ、お袋が生きていたころで、色々と世話を焼いてもらいました。北海道の実際の生活を見たいとのことでしたので、特産の一つである水ダコの刺身を出したところ、何回も噛みながらチューインガムのようだと言って大笑いしていました。今は店をたたんでいますが当時は「酒・たばこ・塩」のいわゆる専売品(税務署による免許制度でした。)などを中心とした田舎のよろず屋を開いており、今なら7−11といったところでしょうか。店の真ん前の道路を挟んで小中学校があり、立地条件は良かったのですが、この小中学校は10年以上前に統廃合で廃止されました。田舎の温泉、桜見物などを楽しみましたが、G氏はビールばかり飲んでいました。まあ、売るほどありましたが。

G氏の女性の友人が日本の米作りの実態を勉強したいとのことで、「青年の船」以来の筆者の生まれた米どころ宮城県仙北の専業農家の大の友人(乗船中から将来は町会議員になると豪語しており、現在、周りの町村と合併して市に昇格し、町会議員から市会議員に昇格し通算25年以上の議員生活を続けています。氏は宮城弁に誇りを持っており標準語をよしとしないため、船の中では筆者が宮城生まれのよしみから彼の「通訳」もしていました。「おだづな」とか「しゃます」と言われたって、他の船の団員にとっては何のことだか。「調子に乗らないで」、「まいった」というような意味です。)に頼み込んで、G氏、友人と友人の9歳になる子息を宮城にお連れしました。一泊だけの短い滞在でしたが、議員宅は代々長男筋の家屋で二階に十数畳の部屋が4部屋もある立派な屋敷です。G氏の友人から質問攻めに遭い、慣れない通訳業務で疲れました。東北新幹線で東京に戻りホテルにお届けしましたら、どっと疲れが出ました。後日、この宮城の友人に聞いたところ、世間は狭いらしく外人様御一行が議員宅に伺っているとの噂が町中を駆け巡って、根掘り葉掘り聞かれたそうです。

ジュネーブで冬のある日、早朝、G氏から電話が入りスキーの支度をして出勤されたしの由。出勤して顔を出しましたら、開口一番、年休を出してほしいと。G氏宛に年休を提出しましたら、ジュラにスキーに行くことになりました。国連ビルからだと車で20分も走ると着くのですが、仕事の方は一段落していてこれといって急ぎの案件はなかったものの、本当にいいのかなと思いました。山頂には彼のスイス人の友人が待っていて、スキーを楽しんだ後、ランチはフランス側に降りて、生ハムの盛り合わせ、小キュウリのピクルス、チーズの盛り合わせ、蒸かしたジャガイモ、バゲットに赤ワインで酒盛りとなってしまいました。年休でスキーをすることはその後二度とはありませんでしたが、今となっては贅沢な思い出です。

1997年のAPECはカナダ政府がホストしましたが、この年に5回カナダ各地に行く機会がありました。G氏はUNCTADを早期退職後、バンクーバーからほど近いビクトリア島に家を建てそこでリタイア生活をしていましたので(奥様はジュネーブに住んでいるときに癌で既に他界されていました。)、これを奇貨としてビクトリアでのAPEC会議の合間を縫って、一晩彼の家を訪問しました。昔話に花が咲き、また、彼自慢の手作りのビールなどを夜遅くまでしこたま飲みましたので、翌日の会議では半分使い物になりませんでした。これがG氏との最後の思い出となりました。合掌。

2018年8月15日 掲載
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