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連載 第四十八話-UNCTAD・GSPセミナーこぼれ話(その19)-

UNCTAD時代、最初の勤務地フィリピンでは、GSPの原産地証明書の発給機関が税関であったことから実務面で種々照会していたこと、また、日本国関税局・税関からの出張者が毎年あり、大蔵省から日本国大使館に出向している書記官と共に夕食などのアテンドは勿論のこと、予算の関係で海外出張も多くはありませんでしたので、年休を取って出張者と関税局・税関視察に加わっていました。このようなお付き合いを通じ、ADB勤務時代にもフィリピン関税局には大変お世話になりました。現在は退職してしまった関係で筆者の比税関への伝手は全くなくなりましたが、今回は、フィリピン関税局幹部との思い出について触れたいと思います。

【フィリピン関税局幹部との思い出】

筆者が赴任した年1982年の当地の関税局長は、空軍出身(肩書がBrigadier Generalでしたので「准将」ですね。)のラモン・ファローラン(Ramon Farolan)氏でした。その後、氏は在インドネシア・フィリピン大使に栄転されました。その後、UNCTADアジア・太平洋地域GSPプロジェクトの所在地がジャカルタに移転した関係で、一度、大使を表敬訪問し再会しました(一緒に記念写真を撮りましたが、東京においてある未開封の段ボールのどこかに眠っているはずです。なお、ラテン系の国では、「大使」職は終身の称号が与えられますので、大使を辞めた後でも公式には大使(Ambassador)と呼ばれます。)。氏は現在でもオピニオンリーダーとしてフィリピン某有力新聞紙のコラムニストを務めています。ご存知の通り、税関には審理や監視取締業務もありますので、フィリピン関税局幹部には軍からの人事異動がしばしばありました。

関税局長在任中にファローラン大使は、有能な部下を軍から二名連れてきて関税局課長級のポストに据えました。一人は、マニラ港税関長(税関の規模の大きさと関税局に隣接しているため、その重要度は日本でいえば東京税関長に相当します。)で、後日、この人は(Dr. Bienvenido P. Alano, Jr.)、入国管理局長官に栄転されました。税関時代にPh.D.をフィリピン国立大学(University of the Philippinesのことであり、UPの略称で通じます。日本でいえばさしずめ東京大学に相当します。)で取得したのかどうかわかりませんが、その後、個人の資格でADBにコンサルタントとしてロースターに登録していました(履歴書ではUPで経済のPh.D.取得となっていました。)。筆者がADB時代WTO絡みのプロジェクトで「WTO関税評価協定」をシンガポールで開催しましたが、氏に専門家として来ていただきました。帰りの飛行機は一緒でしたが、フィリピンのイミグレーションに着きますと元長官だけあって職員が敬礼で彼を迎え、入国審査のブースに並ぶことなく事務所に入っていきました。筆者は当然ブースに並びました。そつのない有能な方でした。

タイも有能な人は軍でキャリアを積むそうですが(実業界に入るのは中華系の人が多いと言われています。)、マルコス後、コラソン・アキノ女史が大統領になりました。彼女の後は、米国軍の幹部を養成するWest Point出身のフィデル・ラモス大統領(Fidel Ramos)でした。主婦で政治経験の乏しいアキノ女史は、マルコス時代に精神的に傷ついたフィリピン国民の心を癒すことが大きな役目であったと思っています。他方、慢性的な電力不足の解消など国家の開発に積極的に取り組んだのは、ラモス大統領でした。最近、空港に遅く着いて飛行機の出発を3時間も遅らせたり、また、ドゥテルテ新大統領の中国への特使として任命(その後、特使を辞任しました。)されるなど話題を提供し続けており、今なおご健在です。

閑話休題。もう一人は、審理・監視課長でした(フィリピンのMilitary Academy卒、その後、経済で修士をUPで取得しています。)。後日、関税局長(Commissionerと呼びます。)や国税庁長官を二度歴任されています。当時、フィリピンにおける税関長のポストは(マニラ港税関長は別格)、関税局の課長より下のランクでした。日本から某税関長が出張で来たところあまり丁寧に扱ってもらえないことがありましたが、フィリピン税関が自らの組織を基準に対応してしまったので、このような待遇になったわけです。筆者がAPECを担当した直後の1996年はフィリピン政府がAPECのホストでした。最初の出張で税関手続き小委員会会合に参加しましたら、件の元審理・監視課長が関税局長に栄転されていました。課長時代には三度ほど一緒に飲んだことがありましたので、気軽にウィリー(本名はGuillermo L. Parayno Jr.です。)とニックネームで呼びかけましたら、周りの人たちは他のAPECメンバー国の関税局長・長官が多くいて、「何なのだ、この若造は、馴れ馴れしく生意気な奴だな」、とでもいうような感じで睨まれたのを覚えています。筆者、臆することなく彼に挨拶と再会の喜びを伝え席に戻りました。氏は在任中ITの将来性を見据え、IT担当の次長職を新設しました。これによって税関の近代化を図ろうとしたのでした。

フィリピン関税局長のポストは時として政治任用(political appointee)となりました。例えば超有名俳優が大統領に当選した際は、内航船を多数所有する富豪が大統領選挙のキャンペーンに大きな貢献したためその子息が37歳の若さで関税局長に就きました。筆者も二度会食をしたことがありましたが、いかんせん、経験不足は否めませんでした。なお、この元大統領は現在マニラ市長を務めています(現在、二期目です。)。

APECの常設機関の一つである税関手続き小委員会(Sub-committee on Customs Procedures)の議長は、関税局・税関当局のNo.2が就く慣例になっていて、フィリピンでは関税局で税関手続きを担当する次長が議長を務めました(Mr. Titus B. Villanueva、氏は税関のたたき上げですが、後日、関税局長に昇格されました。UP卒とはいえフィリピン関税局では極めて珍しいケースでした。)。既にふた昔前のことでもあり、氏は他界されていますが、ご子息が若くして胃癌にかかってしまい、氏から内々日本の最先端医療情報を得たい旨頼まれましたので、大蔵省診療所所長(虎の門病院からの出向だと記憶しています。)に泣きつき、所長のお計らいで虎の門病院の権威の方とご子息の主治医との間で情報交換をして頂きました。関係者の努力が実らない結果とはなりましたが、関係方面との折衝が認められ、次長からは感謝の言葉を頂きました。

第一回APEC閣僚会議がオーストラリアで開催された1989年、東京品川の某ホテルでは時の関税局長が主宰して第一回CCAP(Conference on Customs Administration in the Pacific Basin: 環太平洋関税庁長官・局長会議)が開催されました。局長の意向で参加国各代表には日本滞在中、縁のある関税局・税関職員を張り付けるよう指示が出され、筆者はこれまた軍出身のフィリピン関税局長(General Mison、軍ではミソン大将です。)のアテンドをすることとなりました。一緒に東京税関監視部も訪問しましたが、自分のバックグラウンドを反映するかのように、局長は審理分野について興味を示されました。これは後日、局長に同行したマニラ港税関長から伺ったのですが、宿泊ホテルに本来は別々の部屋の予約でしたが、一緒の部屋にチェックインし、浮いた予算で日本関税局幹部数名を朝食に招待した由。その際の意見交換の一つとして、フィリピン税関近代化のための技術協力を行う日本税関職員を定期的に派遣して頂けないか要望されたそうです。この要望は、日本関税局で鋭意検討され、JICAの専門家派遣という形で現在でも技術協力が継続されています。

APECのアジア・欧州版であるASEMも課長補佐として関税局で担当しました。国際局はIMFや世銀総会などで国際会議慣れしていますが、関税局が、総理の参加するAPECとASEMの二大国際会議について大蔵省における窓口局となったことは大変光栄なことでありました。税関分野については手続きのみならずに監視についても取り上げられており(APECでは税関手続きのみを取り上げています。これはAPEC創設の主目的が貿易と投資の自由化・円滑化にあることによります。)、アジア側と欧州側で交互に会合を開催することで合意されました。EU本部所在地であるブラッセルで税関分野の会合が行われた際、筆者はフィリピン関税局から若干37歳の関税局長と共に出張してきた局長特別補佐官(Mr. Aaron Redubla, Special Assistant to the Commissioner)と意気投合しました。当時のフィリピン関税局の組織では、輸出入や監視などを担当する次長職は置かれていましたが、込み入った案件や政治問題に発展しかねない案件の処理は、弁護士の資格を有する5名程度の関税局長直属のSpecial Assistantに特命事項として割り振られていました。この補佐官は、筆者の知る限り世銀の協力を得て税関手続きの電算化(ASYCUDAの改良型)を実現させ、WTO関税評価協定の導入に貢献し、また、それまで分散されていた税関関係法令を一本に取りまとめました。日本の関税局・税関組織には起こりえないと思いますが、多分、特別な予算枠でもあるのでしょう、補佐官には最低3名の個人スタッフがついていました。この紙面にはぎらつき過ぎて書けませんが、この補佐官を通じてフィリピン税関を一層理解することができました。

フィリピン税関開設100周年を祝う行事が2002年2月大統領執務室のマラカニアン宮殿(日本でいう官邸に相当します)で開かれ、どういうわけかこの補佐官の計らいで招待されました。マラカニアンの内部に入るのは初めてでしたが、時のアロヨ大統領と握手までできました。これも余談ですが、当時のフィリピン税関では、密輸が摘発された場合、密輸品を没収する制度がありました(日本の場合、没収のできる貨物の範囲が関税関係法令で限定されていたはずですが、根拠法令が探せません。多分、関税法第118条あたりでしょうか。)。後日、この密輸品は競売にかけられるのですが、密輸摘発職員には競売された額の10%が褒賞として授与されるということでした。非公式に得た情報では、こうようにしないと密輸犯と結託してしまうから、ということだそうです。今はこの制度はないかもしれません。

ある晩、補佐官の奥様から電話が入り、氏が総合病院に入院しているので顔を出してほしいとのことでした。氏はICU(集中治療室)に入っておりましたが、筆者の呼びかけにも反応することなく、見舞いから二週間後肺がんで54歳の若さで他界されました。一日4箱のヘビースモーカーでした。ブラッセルで最初に出会ったとき二人で撮った写真をお棺に入れて頂きました。見舞いに行った夜、「Time has come to stop smoking!」と自分に強く言い聞かせ、以後、禁煙を通しています。我ながら苦笑しているのですが、筆者の取り上げる話題には他界する人が多く登場しますね。

またまた余談ですが、この補佐官は、レイテの出身で父親は田舎で判事をしておりました。州都はタクロバンで、数年前の超大型の台風で甚大な被害を出したところです。また、レイテは太平洋戦争中、大激戦地でもありました。ものの本を読みますと7万を超す日本兵がなくなったとも書かれていますが、レイテのフィリピン社会においても親戚同士で、日本側につくグループと米側につくグループに別れ、戦後、日本軍についたグループが身内から悲惨な報復を受けた実話も残されています。浅瀬の海岸にはマッカーサー元帥一行が歩いて上陸する像(日本軍の攻撃を受け一時オーストラリアに撤退していましたが、有名なI shall return.のセリフで戻ってきました。フィリピン政府は2014年Leyte Gulf Landingと銘打った上陸70周年記念の5ペソ硬貨を鋳造しています。蛇足ながら、終戦直後、日本の暫定統治のため厚木飛行場にトレードマークのコーンパイプを手に降りた元帥は、It was a long way from Melbourne to Japan.と発言したと伝えられています。)も建てられている土地柄です。一度、彼の親戚の結婚式に招待され、折角の話なので行ってきました。これは想定内のことではありましたが、将来に禍根を残さないための配慮でしょう。筆者が喜ばしい結婚式の集合写真撮影に呼ばれることはありませんでした。

今回は余談が多いのですが、これは自慢話に属すると思います。ASEMの税関手続き委員会を、日本関税局が議長の立場としてブラッセルで開催されたときのエピソードです。「事務局」側は、課長が議長として全体を統括し、筆者が主として各国への根回し役として、そして、係長が会合でのプロジェクターの操作などの役割として、3名で乗り切りました。前回会合は英語ネイティブの英国税関が議長を務めましたが、会合後、先方から我々は7名で乗り切ったのに、日本はたった3名とは素晴らしい、と感心されました。当時は、インターネットの黎明期にあたり、例えば、ネットを活用した法的、医学的な情報への対価を経済上、また、税法上どのように捉えるべきか、を探るため課長と共にEU事務局担当者と会合したことも今となっては懐かしい思い出です。

ASEMが出ましたが今回はマニラで開催された1996年のAPEC閣僚・首脳会議のこぼれ話で締めたいと思います。会場は、マニラ湾に面した埋立地にある国際会議場(PICC: Philippine International Convention Center)でした。日本政府の意気込みが尋常ではなかったためなのかどうかはわかりませんが、某日系企業がマネジメントするホテルを借り切って日本政府代表団200余名が宿泊し、こんなに出張者が必要なのか、と新聞に書かれた程です(前年の1995年は、日本政府が主催者として大阪で首脳・閣僚会議を開催しました。なお、前年のホスト国が翌年のホスト国にあれこれ助言するのが慣例となっていました。)。首脳や閣僚が移動しますので、フィリピン政府の計らいで、幹線道路にはAPECレーンが設置され、配布された通行証を保有する車両のみが通行可能でした。大使館では代表団の数が多いということで、割り当てられた通行証の複製作りを盛んに行っておりました。他方、一般車の渋滞は目を見張るものがありました。窓口局として関税局からの出張者も多く、某係長は大変な目に遭いました。外務省は一階の自分の省の作業室に各省用のピジョン・ボックスを設置したのですが、首脳・閣僚会議に関連する重要な情報が入ったということで大蔵省の作業室のある28階から取りに行かざるを得ませんでした。問題は、当時の橋本龍太郎総理がホテルに着くという連絡があったため、全てのエレベータを総理一行用にと止められてしまい、件の係長は、28階から1階まで、ある日は二往復しました。汗だくで戻ってきたことは言うまでもありません。

2018年8月31日 掲載
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